プノンペン市内にある王宮美術館には、かつての王宮に仕えた人々の民族衣装を展示してあるスペースがある。
このずらりと並んだマネキン達の身につけている衣装の絹織腰巻布(サロン)曜日によって色が違っている。当時の王朝に仕える者たちは曜日によって違う色のサロンを身に着けていたらしい。
写真の一番左から日曜日=朱赤、月曜日=黄色(オレンジ)、火曜日=紫、水曜日=薄緑、木曜日=濃い緑、金曜日=青、土曜日=臙脂色
このように曜日によって違う色のサロンと肩掛け布を纏った人々が集う王宮はさぞかし華やかで、気品にあふれたものだっただろうと想像できる。
カテゴリーアーカイブ: 旅の中から
カンボジアの絹絣(サンポット・ホール)1.
クメール絹絣はアンコール時代の遺跡群=アンコールワットの外壁を飾る壁画のレリーフとして、天女(アプサラス)の腰布として古くから表現されている。

ピダン 絵絣布 カンボジアシルク
とても古い歴史を持つクメールの絹絣。
現在カンボジアのシィームリィープで伝統的なカンボジア絹絣の復興事業に取り組んでいる、森本氏の研究調査によるとインドシナ半島の絹織物の発祥はたいへんに古く、もしかすると世界の常識である漢民族による絹織物生産を遡るかもしれないという大胆な説をとなえている。その要因はカンボージュに代表される蚕の原種がメコン川流域であり、その根拠としてカイコガの主食である桑の木のDNA調査から桑という植物の原種がメコン川流域にあるということらしい。この説を確証するには中国の揚子江流域で発見されている4750年まえの絹織物の断片よりさらに古い、絹織物の出土という湿度の高い地域では不可能な証拠の発見を待つしかないだろうが、相当古くから原種に近い蚕が野生の桑の木に繭を作りそれを糸地として利用していた人々の存在は想像できるように思う。同時に中国~インドシナ国境付近、ラオス、ベトナム、タイ、カンボジアなどメコン川流域の民族に伝わる絹織物のバリエーションと芸術性は他の地域と比べ格段にレベルが高いといえるだろう。

カンボジア絹絣

クメール絹絣

タイ国境スルン地方の絹絣

クメール絹絣
カンボジア絹絣の特徴のひとつは、綾織りのヨコ絣という事である。上の写真でも斜めにヨコ糸が通う部分が見えるだろうか?この綾織りがカンボジアシルク独特の艶と強度を生み出しているようだ。
赤い絨毯との出会い。
そもそも「赤い絨毯」と出あったのは20年前の旅でした。

≪1988年 イスファハン イマーム広場 バザール入り口≫
1988年の3月イランVSイラク戦争の最中イスファハンに滞在していました。
戦火は激しくなり、テヘランにはイラク軍のほこるスカッドミサイルが被弾してシーアモスクの多いイスファハンに疎開していたときの事でした。
世界の半分と詩われた古都イスファハンを訪れる人も無く、ひっそりと人影もまばらでした。
することも無く川に向かうすずかけの並木道を歩いて来たときのことです。前から歩いてきた若者が「サラマレコム」と言って手に持っていた人参を差し出してくれたのです。
そのとき私は躊躇せずにその人参を受け取り口に運びました。戦火に中で精神的にまいっていた私にとって、その人参はとても甘く、乾いた喉と気持ちが潤うのを感じました。

≪テケ ギュル Tekk Turukemen≫
イスファハンの絨毯商はイランでも有名な商売上手と評判でしたので、注意していたのですがその若者には
なぜか心が癒されるのを感じたのです。そのわけは彼の顔が私と同じ日本人のようであったからかもしれません。「こんなところでこんな時に何をしているんだい?」と度々聞かれることもあったのですが、彼は何も言わずに、もう一本人参を差し出しました。「ホシュマゼル」と答えると「何処から来たの?」と英語で話しかけてきました。最初は日本人と思った彼は、後で知ったのですがトルクメン人の青年でした。

≪ヨムート ギュル Yomut Turkmen≫
時間はたっぷりあったので、二人で川のたもとにあるチャイハネへ行くことになりました。私達はザーヤンデ川の水の流れを見ながら、互いに片言の英語とペルシア語で話をしました。チャイを何杯も飲み、水タバコをふかしてすっかり仲良くなりました。彼はモタギーと名乗り、イラン東北地方にあるゴンバディカブースと言うトルクメン族が多く住む町から、イスファハンにある美術学校にペルシア書道を習うために滞在していたのです。

≪ヨムート ケプサギュル Yomut Kepuse Turkmen≫
翌日は彼の案内で「アリ・カプ」王の宮殿の直ぐ裏手にあった、美術学校を案内してもらいました。数百年前に建てられたモスクや宮殿に囲まれた小さな美術学校には、イラン各地から集まった美大生達が居て当時のイランには珍しかった外国人に対して興味深でした。中にはラジオの海賊放送を聞いて憶えたという、流暢な英語を話すシュールレアリストなども居て、多くの質問を受けました。海外の情報に餓えていた先進的な若者達と当時のイラクとの戦争や国際政治のあり方、そして将来のイランと日本の関係について話は尽きませんでした。

≪チョドール エルトマンギュル Chodor Turkmen≫
それから数日間毎日のようにその美術学校に通い、何人かの知り合いが出来ました。トルクメン族のモタギー氏と一番の仲良しは、アルメニア国境にも近いジョルファという町から映画関係を学びに来ていたアルメニア系の男で、映画監督で有名なマフマルバフに似た彼には様々なイラン文化を教えてもらいました。
サントゥールというピアノ線を撥で直接叩く楽器の演奏や、暗い映像と重々しい音楽が印象的な映画館などにも連れて行ってくれました。パワフルな彼らの中でモタギー氏はいつも穏やかで、彼の顔を見るとホットしました。

≪エルサリ ベシール Ersari Turkmen≫
そのときに経験したことはおそらく今の自分にとって大きな糧となっているでしょう。そしてモタギー氏との出会いでトルクメンとはどんな人達で、何処に住んでいるのかとても知りたくなりました。彼の故郷であるゴンバデ・カブースにも行ってみたいと強く思うようになってのです。しかし、戦争状況が悪化して外国人はすべて国外退去となり、その時はその思いは叶いませんでした。 (つづく)
8年前のバローチスタン
今時思いだすのは、そう、すこしずつ記憶から遠ざかりつつある2001年9.11同時多発テロ事件である。
おそらく何年前のブログにも書いたと思うが、やはり21世紀はこの事件から始まり未だにそれは世界各地の状況を変え、アフガニスタンでもイラクでも、そしてアメリカでも多くの人々の人生をより複雑なものにした。
出来そうもない事かもしれないが、9月11日は世界中で現在も続いている紛争をストップしそれが何ゆえに起きているのかを考える日になったらと願う。
8年前のその日パキスタン西南部のバローチスタンに滞在していた。

カラートへ向う峠の道
W大学のM先生(バローチ研究家)と共に暫く滞在していた、パキスタンの都市クエッタからさらにバローチスタンの奥地を目指すべく、ピックアップトラックをチャーターしてバローチスタンの古都カラート(砦)から年老いた楽師を探すべく秘境?ニチャラー村を目指していた。

パキスタン南部 バローチスタン州 カラートの町
この町に着いたのが2001年9月12日まさにNYがパニックになったその後であった。
町は至って平穏であり3年ほど続いた厳しい旱魃の影響なのか、乾いた砂埃が風に舞う景色が印象的だった。ここではラクダ市などを眺めたり、これから入るニチャーラー村に必要な荷物の買出しや乏しい村への情報収集を行った。

パキスタン南部 バローチスタン州 カラートの町
この町に多く暮らしているのは、バローチ(イランではバルーチ)族系の人々でその中にはブーラフィー族といわれる人々がいる。特にこのカラートから南部はブーラフィー系の人々が多く暮らしているようだ。
また、ブーラフィー系の人々はあまり商業活動を好しとしない風潮があるようで、商店などはパシュトゥーン系の人々に委ねているようだ。
私にはブーラフィー族とバローチ族とは外見的には、ほとんど見分けがつかない。研究者M先生にはその違いがわかるらしい。
まず言葉が違うらしい、バローチ族はペルシア語系でイラン~イラクにも多いクルド人の使うクルド語にも近いそうだ。それに対してブーラフィー族はなんとインド南部が原郷とも言われるドラヴィダ語系らしい。
M先生はこの文法的にも困難極まりない、ブーラフィー語をクエッタのバローチスタン大学でマスターされたらしい。そしてこのイトオシキしき「サベージ=野蛮人」ブーラフィー族をこよなく愛しておられるようだ。
其の旅でもそれは様々な形で体験することが出来た。

これはM先生がなんとオークションで入手された絵葉書。M先生より

そしてこれが誇り高きブーラフィー族の戦士である。M先生より
同時にブラフィー族は美しいキリムを多く織る。彼らの言葉(ブーラフィー語)でキリム(敷物)をコーントと呼ぶ
ようだが、これは彼らが得意とする芸能活動において詠われる詩の中にも登場するようだ。
≪コーントを広げればそこは花園・・・・。≫遊牧民にとってそれは共通の楽園的イメージなのだろう。

朝もやの中で演奏してくれたブラフィー族の楽師 弾くのはサローズ。
現在も混迷の続くパキスタン南部~アフガニスタン美しい詩や音楽を愛する人々に一刻も早い平和が訪れることを願う。
祇園祭りと絨毯
だいぶ暑くなって来ました。
京都の祇園祭りもそろそろクライマックスの山鉾巡行が17日夜に行われるようです。
8年ほど前に出かけたのですが、その時は奇しくも台風が近づいてきているという不安定な状況でしたが、今年2009年は天気はよさそうです。でも今頃の京都の町はさぞかしホットなことでしょう。

≪月鉾 巡行≫ 写真 HALIマガシンより引用
祇園祭りの縣装品にかなり古い絨毯が飾られているという事を知ったのは15年ほど前のことです。
最初で最後かもしれない規模の絨毯展が大阪の民族学博物館で行なわれました。
アルダビルカーペットやペッゾーリの狩猟文絨毯など‥、現存では世界最高レベルの絨毯が数多く並んだ、信じられない展示会でした。
この中で負けず劣らない絨毯が、この祇園祭の山鉾に掛けられた縣装品としての古渡り絨毯でした。それらは、ムガール時代のインド産やペルシア最盛期の逸品といわれる通称ポロネーズ絨毯などで、世界でも数点しか残っていない貴重なものばかりでした。

≪月鉾 17世紀 ムガール絨毯 前掛≫
この絨毯が海外の研究者などにも、最も高く評価された月鉾の前飾りのムガール朝時代に織られたと
思われる絨毯です。これ以外にも油天神山・岩戸山・函谷・北観音山・鶏・長刀・放下・南観音山など
山・鉾にオリエント地域で織られたと思われる絨毯が飾られ、その数は30枚にも。


≪山鉾左右の懸装品 胴掛 ≫
山・鉾の前後左右に飾られる絨毯はゴブラン織りや綴れ錦などと並んで、伝統的にもかなり古くから祇園祭に登場しているようだ。
ちなみに北観音山の絨毯は、ペルシア文化の影響の濃いムガール朝時代のインド産のものが多く、美しい建造物や染織文化の花開いたムガールならではの、華やかさをもってる。
ムガール朝絨毯はパキスタンのラホールなどが中心産地で、今もラホールでは絨毯織りの伝統はしっかり残っている。
ただこの絨毯達も日本では長い間、ペルシア絨毯(イラン製)と思われていたようである。これらの絨毯の多くがペルシア絨毯ではなく、ムガールのものだということがわかったのは、比較的新しくアメリカのメトロポリタン美術館の研究チームが調査を行い、有名な絨毯達がムガール時代のインドで織られたことがわかったようだ。この研究チームのリーダーは当時メトロポリタン美術館の東洋染織研究のトップであった梶谷宣子先生という京都在住の研究者であったことも面白い事実である。
これだけまとまった数のムガール朝の絨毯がほぼ完璧な状態で保存されていたということは逆にとても珍しく貴重な所蔵品としての価値は高く評価されたようだ。

≪ムガール朝絨毯 北観音山 後掛 17世紀末≫
驚くのは、これら絨毯文化の最盛期に織られた絨毯がほぼ完璧な状態で保存されていることである。
祇園祭を訪れた際、無理を言って懸装品が保存してある蔵を見学させて頂いたのだが、絨毯を保管するために絨毯が折れ曲がらないような大きさの特注の桐箱が作られその中に、吊るしてしまうという気の使いようにさすが日本人の細やかさと納得したことを憶えています。
このような心使いがあったからこそ、高温多湿な日本でもこれらの絨毯や懸装品が状態良く残っていたわけで、海外での評価も上がったといえそうだ。イギリスの絨毯研究紙「HALI」マガシンも1994年に取材に来て月鉾の絨毯はその表紙を飾っていました。

≪放下鉾保存 胴掛 17世紀前半≫
この絨毯は以前紹介した「ヘラティ文様」の源流のようなモチーフが織り込まれている。絨毯中央部にある中心柄を囲むように4枚の葉のようなモチーフが見える。
世界でも貴重といわれるムガール絨毯が日本に、これほど多く残っているのはどうしてなのか?
日本に於ける数少ない絨毯研究者の杉村棟氏は、「絨毯=シルクロードの華=」のなかで、江戸期の日本が
東インド会社などを通じて西方諸国と海上貿易をしていたのではないか?という見解を述べられています。
実際にこれらの絨毯の年代を特定する際にも、これら飾り物の寄進、購入、補修などの明細が記入されている寄進帳に記された年代が大きな証拠となったこともあげられています。
この暑さを感じると、祇園祭を思い出し、この暑さのなかしか見られない貴重なアンティーク絨毯に思いが馳せます。
from Mashad
しばらく怠けていたブログですが、出張から帰ったら少しずつ再開しようかと考えています。
あれこれと欲張らず一番好きな『部族の絨毯』に絞り込んでいけたらと思っています。
バローチ研究家のM先生とも、今年は『バローチの年』にしようということで盛り上がりました。
マシャドでもたくさんの素晴らしいバルーチの絨毯を見てきました。

(sale-ye Baloch)2009~
八角星について思うこと2(つづき)

これはウズベク族の手によると思われる、細かいクロスステッチによる小さな袋である。

そしてこちらは表側の一部である。中央に大きな八角星、そしてその周りを取り囲むように
4方に4つの八角星が丹念に刺繍されている。まさに八角星づくしという小袋である。
この刺繍の小袋のお陰で命拾いしたことがある・・・。また今でも随分お世話になっている。
私にとって、最も大切なものの一つである。そして八角星にこんなに魅せられるのも、この袋が好だから、かもしれない。
中にはお守りとして、お数珠、お守りのフィルゼ(トルコ石)、方位磁石などが入っている。
旅行に行く時の必需品で、これがいないとなんとも落ち着かない。
15年以上も前だろうか?イランのマシャドで大量に古いビーズや天然石の印象などを入手した。中にはササン朝ペルシア時代のシリンダーシール(石のハンコ)などが含まれていた。
その時の帰国ルートは、検査の厳しいテヘランへは避けて、イランのローカルエア(アーセマン)で、ザへダンからクエッタ抜けるパキスタンルートだった。
ただし問題はマシャドとはいえ国際便の出国だ。今こそだいぶ空港は煩くなくなったが、当時のイランの空港には、顎鬚の濃い革命防衛隊がたむろしていて、暇を見つけては、目立つ外国人などにちょっかいを出していた頃である。アンティーク(1000年を越えるもの)は特に持ち出しが厳しく、没収ならまだましで、場合によっては別室にて厳しいお咎め、更には、拘留などといういやなうわさを聞いていた。それこそ見つかれば、古い映画だが「深夜特急=ミッドナイトエクスプレス」の世界である。
やばいものは、体に身に着けるのが一番安全だが、隠し切れない量だし、全身をボディチェックする係官のいるイランではそれも難しく、やむなく幾重にもくるんでX線防止袋にいれて手荷物に・・・。
ところがかえって、このX線防止袋が怪しまれた。係官はにやにやしながら「これは何だ!」
といわんばかりにその袋を開けようとした。
心臓はバクバク、この時ばかりはもうあきらめて天を仰いだ・・・。
ちょうどその時、この大事な八角星の袋がポロリと現れた。
そして中からは、お数珠と方位磁石が・・。
その時一瞬空気が止まったように感じた。
係官は私の顔をじっと見つめ、「ジアラット キャルディード?(巡礼に来たのか?)
」と尋ねた。
私がその時どんな顔をしていたのか、鏡で観てみたいが、おそらくは引きつった笑顔を作って、ただうなずいた。
ラッキーなことに係官のひとりは、通称イラニアンハザラといわれるモンゴル系だった。
彼は全てを見透かしたような顔で、「ボロウ!ボロウ!(早く行け)」と言った。

こうして私は今ここにある。
Life is color(染めについて)
旅と絨毯とアフガニスタンのFさんから『それは本当に「天然染料」なの』という問いかけがあった。確かに幾つかのサイトでは天然の染料で染めらたものであることを強調しているようである。
イラン映画で『GABBEH』というカシュガイ族の女性と絨毯が主役の映画があった。映画の内容は族長の男親に他部族との結婚を反対されたカシュガイ族の娘がその思いを絨毯に織り込む。その絨毯に現れた文様は彼女の人生そのものである。そして最後は男と駆け落ちして、親父がそれを銃をもって追いかける。というような内容であったそこに登場する中年のおじさんが水辺で女性と恋に落ちるのだが、準主役ともいえるそのおじさんはアッバス・サイヤヒーさんという絨毯の染め師であった。学校の先生役で登場するのだが、彼が黒板の前で様々な色をおしえてくれる。そして彼が『Life is color』と確か言ったように記憶しているその時、これはすごい言葉だと思った。数年後、テヘランの絨毯展示会で彼と偶然に会うことがあった。

ナマイシカーテヘランの大規模な絨毯展で草木染のブースを 出展していたのであった。
様々な天然染料の素材を並べている。茜(ロナス)=赤、ザクロ(アナール)=黄色右奥の緑色のものは、胡桃の果肉(ギャルドゥ)=茶~黒など等・・・。

これはそれらの天然染料を使いやすいようにパウダー状にして紹介もちろん販売もしていた。これは5年ほど前で有るが、この頃からイランでも草木染に対する関心が戻ってきた頃である。
その翌年は大々的に草木染を紹介するイベントが野外の大会場でも行われていた。

これは大変に興味深いパフォーマンスで、サイヤヒー氏と彼の弟さんが責任者として様々な染料を違った媒染剤(明礬・アルミ・鉄など)で染めるとどのような色彩変化があるのかを丁寧に試し、その場でも実践し、かつ興味の有る人には詳しく教えてくれるという信じられないほど丁寧なものであった。絨毯好きにはたまらない内容であった。

サイヤヒー氏はとても丁寧で、ペルシア語であったが素晴らしい草木染に関する貴重な資料もいただいた。(読んでいないが・・・)
このようなことは、これまでの常識では考えられない画期的なことである。というのは本来、染め屋さんの技術というものは門外不出の秘密であり日本においてもどの植物からどの媒染剤を使えばどのような色になるのかというのは決して教えてはいけなかったからである。
(実は父方の実家は、2代前まで染め屋だったらしい。)
日本では高崎に住む山崎一家がこの因習を打ち壊し秘伝を公開し『草木染』という言葉を日本で定着させたようであるが・・・。全ての情報がオープンになりつつあるネット時代の今のさきがけのような事だが、当時は他の染め屋組合から大顰蹙をかってしまったようである・・・。何故、イランでもこのようなことが始まったのか?これには幾つかの理由が有るようだ・・・。
トルクメン絨毯に関してⅢ(アムダリア川沿いの人々)その1
しばらく前のトルクメン絨毯に関してのICOC(国際絨毯会議)のアカデミックセッションの続きである。
『川沿いのトルクメン族』 (アムダリア川中流域の部族のモザイクについて。)中央アジアのアムダリア川流域のトルクメン族の織物について、これまで『エルサリ族』もしくは*『ベシール族』として間違って言及されてきた絨毯に焦点をあて、100枚を超える絨毯の資料の中から、均一でなくモザイクのような多様性のあるこの地域の絨毯世界に新しい分類を加えた画期的な報告会がであった。
この地域の地理や民俗に詳しいPeter氏によるアムダリア川中流域の地域的説明の後で、世界有数のトルクメン絨毯コレクターでもあるElick氏所有の袋もの(トルバおよびジュワルなど)コレクション写真を見ながらという大変に中身の濃いレクチャーであった。
まずは、彼ら解説するアムダリア川流域にあたるこの地域『Lebab トルクメン』の典型的な絨毯のモチーフを7つに分類していた。
1.トルクメンの伝統的なモチーフ(ウエスタン・クラシック)
2.クラシックモチーフを川沿いトルクメンが改良したもの
3.『空飛ぶガチョウ』のモチーフ。
4.格子状のモチーフ。
5.ミナカリ文様など見られるペルシア絨毯などから影響を受けたモチーフ。
6.花・植物・ボテ(ペーズリー)などのモチーフ。
7.東洋(中国など)からの影響を受けたモチーフ。
この分類については、かなり議論もあるようだが、Elick氏のコレクションには確かにこのような文様の絨毯類が見られた。これまでに見たことのあるものから初めて見るものまで幅広かった。
ツ黴
ツ黴
ツ黴
ツ黴
ツ黴

会場で行われたプロジェクターによる映像が写真に上手に取れなく、また処理もわるいので
お見苦しいのですが、どの袋物(トルバやジュワル)がどの分類にあたるのか?
かなりマニアックで濃い世界でした・・・。
ダゲスタンの布『KAITAG』
昨年4月にトルコのイスタンブールで行われた、ICOC『国際じゅうたん会議』は数々の素晴らしい内容の展示の中が行われていた。なかでも今だに心に残る印象的な展示がコーカサス西部のダゲスタン地方の祭礼布『KAITAG』であった。

イスタンブールからボスポラス海峡沿いに何本かの大きな橋を
越えたところに ひっそりとあるS.SAMANCI 美術館で2つの
見ごたえのある展示を行っていた。
ひとつは以前に紹介した『IN PARAISE OF GOD』と
題された、1500年~1750年という圧倒的な古さのアナトリア絨毯の展示であった。<この年代の絨毯がルーマニアのドラキュラ伝説で有名なトランシルベニア地方の教会にまとまった形で保存されそれらが極めて状態よく残ったいた。京都の祇園祭りを彩る絨毯や布と同じように普段は使われずに大切にされて、残っていたというわけである。
前置きが長くなってしまったが、同時に開催されたダゲスタンの布は個人的に十数年憧れ続けた布であった。
雑誌『HALI』マガシンで紹介されたいたKAITAGをみつけ、一目ぼれし国立などの展示会のD.M.として真似させていただいていたのだ。

今回の『KAITAG』の展示は、1993年のHALIマガジンに掲載されたRobert Chenciner氏のコレクションが多数含まれていた。全部で47枚の圧倒的な『KAITAG』を、人のほとんどいない会場で落ち着いて見ることが出来たことは驚くべき偶然の幸運であった。奇しくも会場にいたのは二人連れで、その一人は雑誌『HALI』マガシンの現在の編集長Daniel Shaffer氏であった。
さてダゲスタンとはどんなところであろうか?
これも偶然のなせる業か、なんと1992年に渋谷の松涛美術館において このマニアにはたまらないダゲスタンの展示が行われていたのだ・・・。

center>
地理的には東にはカスピ海のある低地、中央から西は4000mを越える山々のそびえるコーカサス山脈がそびえている。回りからを閉ざされた山岳地帯にひっそりと残る、山村が峠や深い谷を隔てて点在するという、非常に特殊な自然条件なため、つい最近ま外国人が訪れることがなく、彼ら独自の文化が守られきたところといえるのかも知れない。
同時に彼らは多くの民族に分かれているらしい。30を越える言語がそれぞれの民族にあり、研究者の間では『言葉の森』・『言葉の山』と称されているようだ。図録の表紙にある民族衣装の見事さで、彼らの手仕事のすごさが推測されるが実際に、民族衣装・フエルト・絨毯・キリム・刺繍『KAITAG』・金属工芸・陶器・木工芸などありとあらゆ工芸品がどれも高いレベルで続いてきたようだ。
その中のアヴァール人達の織るキリムや絨毯はどれも素晴らしく世界中でも圧倒的な評価を得ている。

KAITAG 刺繍 ダゲスタン北部
次回からこの『KAITAG』がどのように使われ、どのような意味をもつのか少しずつ辿ってみたいと思っている。

